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【手書きライフ】わたしの日記の経歴をちょっと

 

わたしは去年から10年日記を書いている。

書くのは夜、ベッドに入る直前の1〜2分で。

寝に行く支度が全て終わったら書くのが習慣になっている。

 

ふりかえれば「わたしと言えば日記」「日記を書くのが好き」

という自覚を持ちながら生きてきた一面がある。

そのことをまとめてみることにした。

そして最後に、読んでくださった方へのメッセージを込めて。

 

 

大好きだったのは日記よりも500円玉

わたしの日記との出会いはこれまで何度もあった。

日記との出会いとは、日記を書くきっかけのこと。

最初は幼稚園時代の絵日記。親の教育方針の1つだった。

1週間続けると、500円のご褒美。

我が家は小遣い制がなかったので、

大きくて特別感のある小銭、見慣れないけれど美しい花の絵が書いてある500円玉が

欲しくて欲しくて、わたしは絵日記を書き始めた。

結局これを達成したのは、ある一時期の3ヶ月とかだったと思う。

 

 

時が経ち、小学1〜2年生頃になると今度は

「日記を書いていれば学校で書く作文が得意になる」との教えから

絵日記ではなく文章だけで良いよ、ということになった。

そして1週間ではなく1ヶ月続けたら500円というように小遣いのハードルが上がった。

それでもわたしは500円玉が欲しかったし、

実際に学校で何か行事がある度に書く作文や感想文が苦で仕方なく、

それならと親の教えに疑問を抱くことなく日記を書くことを受け入れた。

上の兄弟の余り物のノートや親が用意してくれた大学ノート、作文用ノートに

書いていた。月末になると父か母に見せる。

それはかなり嫌だったが褒美の500円玉がどうしても欲しくて、続けていた。

365日を通じて継続できた訳ではないが、兄弟の中で唯一脱落せずある程度の期間続けたのは

わたしだけだった。

 

小学3年生の頃も、毎日ではないがやはり500円玉が欲しくて日記を書いていた。

親が言っていた「作文が得意になる」は本当なのか、イマイチわからなかったが

ここまでくると、日記を書くこと自体、つまりその日の出来事を振り返って言語化するとか

その時の感情を落とし込むとか、見た風景や関わった人の描写とか、

そういったことを書くのは何の苦でもなくなり、

むしろ「日記を書くことはわたしの一部であり、なくせない。」という感覚を

持ち始めたのはこの頃かもしれない。

また、何としてでも文章を書かせようという父の願いの表れだったのかもしれない。

夜なかなか眠れないことがある、とわたしが相談すると

「そういう時は日記を書けばいいんだよ。眠くなるまで。だんだん眠くなってくるから。」

なるほど、これはおまじないのようだけど本当っぽいなと信じたわたしは

眠れない夜、夜な夜な学習机の電気を付けてミミズのような字になるまで

日記を書いた日々がある。

父は、学校で作文を書き終えることができずに持ち帰ってやっと

書いているわたしを見て、少しでも救いたかったのかもしれない。

でも、居眠りしながら書く日記と優れた作文を書くというのは

やはり別物だったのだろう。作文の苦手を克服できた!

とはいかなかった気がする。あくまでもわたしの場合。

 

学校のクラブ活動が始まったり習い事が増えたり、

勉強が難しくなったりとちょっと「多忙になった」こともあり

500円玉のご褒美を得るためには必ずしも月初から月末まで書くことが必須ではなく、

開始した日にちから1ヶ月続けられれば良いというルールに変わった。

わたしから直談判したのか、そんな形でも続けて欲しいと願った

両親からの提案だったのか、そこは全く記憶にない。

 

アンネの日記に出会う。日記帳は大親友”キティ”。

確かこの頃だったと思う。学校で図書の時間に

「戦争に関する本を読もう」という担任の先生からの指示。

様々な本を読んだが、その中の1つがかの有名な「アンネの日記」。

 

アンネの日記』(アンネのにっき、オランダ語Het Achterhuis)とは、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクによる日記様の文学作品。

第二次世界大戦の最中のドイツによる占領下のオランダアムステルダムが舞台となっている。国家社会主義ドイツ労働者党によるユダヤ人狩りのホロコーストを避けるために、咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだ、8人のユダヤ人達の生活を活写したもの。

執筆は密告(密告者はいまだ不明)により、ナチス・ドイツゲシュタポに捕まるまでのおよそ2年間に及んだ。1942年6月12日から1944年8月1日まで記録されている。彼女の死後、生き残った父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになった。

出典:ウィキペディア アンネの日記

 

わずか15歳までしか生きられなかったアンネ・フランク。

第二次世界大戦末期に恐怖の隠れ家生活を送る中、

13歳になる誕生日にお父さんが買ってきてくれた

赤と白のチェックの日記帳が始まりで、

そこに綴られた少女の言葉が平和の尊さを世界中に訴えている、というのだ。

一人の少女が前を向いて必死に生きようとしたが

15歳で幕を閉じることとなってしまった。

今からたった数十年前にそのような事実が起きていたことに衝撃を受けた。

悲しみの感情とともに、日記というものの影響力が

こんなにも大きくなることもあるのだと知ったわたしは

「尊敬する人はアンネ・フランクです」と言うようになり、

同時に日記に対する思いが俄然強くなったことは間違いない。

小遣い欲しさと、作文の苦手を克服したいという2大目的のために

始まったわたしの日記だったが。アンネと比べると恥ずかしくなった。

 

小学5年生。この頃までには、日記用のノートは

自分で用意するようになっていた。

友達とのプレゼント交換でもらったものだったり、自分で買ったものだったり。

そしてアンネを真似してやっていたことがある。

アンネは自分の日記帳を”キティ”と名付け

キティは何でも聞いてくれる大親友なのだと言っていた。

わたしも同じく日記帳を”キティ”と呼び、

どんな愚痴や恥ずかしいことを言っても(書いても)

黙って真っ白な気持ちで聞いてくれるね、ありがとう。

などと書くようになった。

自分の気持ちを書き出すことは誰か他の人と話すのとは違って自分との対話になる。

日記帳をキティという大親友にするというアンネの発想のおかげで

わたしはそれができるようになった。

そしてほとんど時を同じくして、親に日記を見せるなんて

絶対にゴメンな年頃になってきたし、500円という小遣い目当てに書くなんて

恥ずかしいとようやく思えるようになってきたし、

そうこうしている間にこのご褒美制度は自然消滅していった。

代わりに残ったのは、「日記を書かないと寝られない」という

自分への暗示のような習慣。

家族で遠出した夏休みなどにどれだけ帰宅が遅くなっても、

テスト前日に深夜まで勉強していても、たった一言の挨拶や呟きみたいな

ことでもいいから続けるんだ!とにかく、キティに伝えるんだ!

と思うようになっていった。

あれだけ「書きなさい」と言っていた両親が

「書かずに寝たら?」と心配する日もあったほど。

 

日記を書けないのは、不調の証拠。そして不調を救うのもまた日記。

中学、高校時代もほぼ毎日日記を書いた。

自由に。誰にも読まれる心配のない、自分の声。

キティという大親友が広い心でわたしを支え続けてくれた。

 

親友の存在は人間の発達段階で非常に重要とされ、ハリー・スタック・サリヴァンは『The interpersonal theory of psychiatry』(1953年出版)において、児童期(juevnile period、4,5~14,15歳)における親友(chum)という存在は「癒し」の効果があると説いている。

出典:ウィキペディア 親友

 

しかし、高校2年生の夏。

ある校外活動に燃えた時期があった。

そして少し、疲れてしまった。

約1ヶ月近く日記を書くことができなくなった。

これまでに出会ったことのない他県に住む優秀な高校生達と出会い、

同じ目標に向かってわたし自身もそれなりに頑張った。

いや、自分以上に頑張ってくれたのは家族や知人、地域の人たち

だったかもしれない。様々な形で協力してもらった。

活動の一環でヨーロッパに行くチャンスも得た。

そのようにして受けた刺激を消化しきれなかったのだろう。

自分が向かう道が見つかるどころか、迷走が始まってしまったのだ。

書きたいことが多過ぎて、アンネがしたように文字として自分が生きた証を残したくて、

全てを書いていたら数時間もかかってしまうほど、書きたいことがあり過ぎる。

でも実際には書き切れないから、書けない。書かない。

この現実に対処できなかったわたしは、キティと話すことができなくなっていった。

ポーランドで撮影

ポーランドにて。川沿いを散歩したとき。(photo by 華子)

ポーランドで撮影

ポーランドにて。物価が安くて驚いた。(photo by 華子)

 

高校の日本史は難しくて(暗記することが多過ぎて)

得意科目とはとても言えない成績だったが、

当時の日本史の男の先生はどんな生徒とでも勉強以外の話題を楽しみ、

話を聞いてくれる先生だった。

夏休みが終わって2学期のある日の授業後、

「小学生の頃から書いてきたが、最近日記を書けていない」

と先生に打ち明けた。このことは誰にも話したことがなかった。

先生は、だからどうしろ、とアドバイスをくれた訳ではなかったと思う。

ただ、先生に話しながらわたしは

「あぁ。自分は調子が悪い(精神・肉体ともに疲れ気味のこと)と

日記が書けなくなるのだ。また、日記が書けないから調子が悪くなるのだ。」

ということに気が付いた。日記を書けないのには理由があると気が付いたのだ。

自分のありさまをそのまま受け留めることが時には大事である、という学びとなった。

結局、そう気付かせてくれたのはキティの存在のおかげだった。

それからは、不調なときこそ、せめて、日記を書こう。

そうすれば、また絶対にわたしを救ってくれるから。

そう思うようになった。

体力と気力を回復したわたしはまた日記を書き始めた。

 

【手書きライフ】自分を救ってくれるのはいつも手書きだった

Contents【手書き】がわたしを救ってくれた。【手書き】は誰をも救ってくれる。【手書き】で日記を書いてきた。そこから得た気づきで立ち上がる。 【手書き】がわたしを救ってくれた。【手書き】は誰を ...

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その後、ずっと書き続けたのかというと・・・

その後の受験時代、大学生時代。

自分への甘さもあり1日もサボらずに書いた、ということではなかったが

ほとんど毎日書いていたと思う。

特に旅行などに行くと、自分達のことより子供を優先して資金援助をしてくれた両親に、

朝から一日どこで何をしたか、この光景、

現地の空気や匂いや空の色はどういうものなのか、

どれだけ素晴らしかったのかを記録し、伝えたいという思いで

たくさんのことを書いた。その日を幸せに過ごせたことを残したくて書き殴った。

 

大学卒業後、就職のために実家を出て地元を離れることになった。

新天地での慣れない生活を支えてくれたのは、やっぱり日記だった。

キティと話せるのならば大丈夫だという自覚があった。

新生活を始めて数ヶ月後までは。

 

数ヶ月に一度、帰省するたびに実家の自室の片付けを進めることに。

しかし、それまで書いてきた日記帳を捨てることができず

「このままのペースで書き続けたら一体この日記帳の山はどうなるんだ!?

増えるばかりだけど、これで良いのだろうか」

と初めて思ったのだ。1Kの8畳間で初めての一人暮らしを開始して

スペースは有限でモノは永遠には持ち続けられないことを痛感。

世間が注目するミニマリストという生き方も知った頃。

 

今度は、こうした物理的な問題を解決できず、わたしが達した結論はこうだった。

「わたしの日常を書き綴ってきたものなんて

残していても何の価値もない。

人に読まれたくないことも書いてきたし、

アンネのように有名になることだってできない。

でも、まだ捨てる勇気もない。

だったら、もう日記を書くのはやめよう。

わたしがどう生きたかなんてことを残そうと思うのはやめよう。

書き残すために生きるんじゃない。

紙として残らなくても、全部を覚えていられなくても、

忘れたくない大切なことだけを心に焼き付ければそれでいいのだ。」

中断期間もたびたびあったが延べ期間で見れば約20年、

褒美に釣られて始めたのちに「日記を書く自分こそ自分」と

思うまでになったのだが、それでもその日課は

「別にやらなくてもいいんだ」と思うと

肩の力がふっと抜けた思いがした。

 

10年日記を書く。その理由は?

 

それから数年たった今。

また日記を書き始めた。去年、初めて10年日記を買ったのだ。

これなら10年後までこの1冊しか増えない。

10年日記とボールペン

2020年の誕生日を迎える前に購入

 

3年日記や5年日記があることは10代の頃から知っていたが、

その頃は「数年間分を1冊に書くなんてきっと無理。もっと書きたい。」

そのくせ「数年先まで続けられる自信がない。」

と思ってもいたから興味を持てなかった。

 

以前のように

「とにかくたくさんのことを書いて、誰かに伝えるために残したい。

(たくさん書けば、上手な文章が書けるようになるかもしれないから。)」

このような思いはもうない。

 

だからと言って、昔とは一味違った素晴らしいことが書けるようになったのか

というとそんなこともない。相変わらず

「仕事はかなりキツかった。体も頭も。」「全く不規則な生活だ」とか

「散歩へ行って途中で雨」、「今日は◉◉をしに◯◯へ行ってとても良かった」

「何とか、希望を持って、希望に向かっていきたいものです」とか

「大変だけど10年後には絶対にこうなりたい。次のステージへ行きたい。がんばるぞ」など。

こんなことを記しているに過ぎない。

 

かつてと同じようなものをまた書き始めたところで、意味なんてあるのか?

 

写真だとわかりにくいが、選んだ10年日記はA5サイズで

一日に書く量はかなり少ない。数えると大体80文字くらいだ。

時間的、体力、気持ち的に無理なく書ける文字数である。

負担に感じることなく10年日記を書く意味は、次のようなところにあると思って始めている。

その意味を持たせたい理由は?
10年連用にしたことに意味あり 10年間で自分がどのように変化、成長していけるか見ていきたいから。

そう思った理由は、

これからは他の人にアレンジしてもらう人生ではなく、

自分で考えて動いていく人生にしたいから。

自分が自分と対話する場を持つ場として意味あり つまらない一言でもいい。できごとの記録でもいい。

それが自分の声だということに変わりはない。

自分の声を出すことは自分の人生を歩むことの第一歩であり、大事な要素だから。

 

みんな自分の声を持っている。

みんな、それを言いたいと思っている。

それなら手書きで日記を書いてみてはどうだろう。

ブログやSNSはかさばらず、他人と簡単に共有できる

優れものであり大事なツール。

でもそこに書いていることが自分の声の全てだろうか?

手書きの日記帳は、自分しか知らないところにしまって

おけば誰にも見られる心配がない、自分と対話できる場所。

わたし自身、こうしてウェブ上での発信と手書きを併用している。

手書きは大好き。だがデジタルとの併用を始めたことで

このように昔を振り返り形にすることができた。

このこと自体、デジタルの恩恵に感謝すべきことである。

手書きの日記はあなたが秘める可能性を無駄にはしない。絶対に。

これからもわたしは手書きとともに生きていく。

あなたも自分の声を自分に届けることを、ぜひ大切にしてほしい。

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手書きライフ研究家・華子(カコ)

事務職フルタイム勤務の傍ら、【硬筆】【楷書】のキレイな字と【手書き】を生活に取り入れることによってどんなライフスタイルを送れるのか?自分の好きや得意を活かした人生を送れるのか?を探ろうとしています。

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